その日まで、ジェイコブ・アンダーソンの人生は順風満帆だった。父は世界的に有名な物理学者であり、母も彼に負けない知性を持つ薬学のエキスパートだった。両親の類稀な知性を受け継いだジェイコブは|マサチューセッツ工科大学《MIT》をトップの成績で卒業し、思うままに研究を重ね、様々な分野で劇的な発見と開発を行った。
誰もが羨む彼の人生を塗り替えたのは巨大なアメーバのように見える怪物だった。建物が、トラックが、ありとあらゆるものが天に向って吸い上げられていく。人智を超越した光景に、SFやオカルトなど全く信じていなかったジェイコブは生まれて初めて神に祈り、そして、神ならざる者達……即ち、特定災害対策局に救われた。
彼が偶々余暇に来ていたウエストバージニア州を襲ったのはミュトスと呼ばれるSDOだった。この州はアメリカでも有数の炭鉱を保有している。炭素をエネルギー源とするミュトスにとっては格好の餌場だった。
ミュトスには特殊な電波が有効である事を対策局は把握していた。それ故に迅速に事態を収束させる事が出来たわけだ。その一件以来、ジェイコブは対策局への入局を熱望するようになる。幸いにも、資格は得ていた。
対策局に入局する為の絶対条件はSDOと接触している事。
真の神意を体感したものだけが入局の許可を得られる。局の門戸を叩いたジェイコブは持ち前の才覚と築いてきた私財のすべてを注ぎ込み、遂には副局長の座にまで登り詰めた。
―――― いよいよだ。
ジェイコブにとって、SDOは憎むべき存在ではなかった。襲われた時に感じた恐怖も、今では神意を体感した事に対する誇りに変わっている。無論、人類を救うという対策局の方針に異を唱えたいわけではない。ジェイコブの望みはSDOとの共存だ。その為に必要なものは『理解』である。
何故、SDOは人を襲うのか?
何故、非敵対性SDOは人を襲わず、それどころか守ろうとするのか?
その疑問の答えを手にする資格を与えられた。滅菌された空気を吸い込みながら、資料室へ入る。ここまで来る為に十二のセキュリティチェックがある。限られた人間のみが入室を許される空間に立っている事がジェイコブには誇らしかった。ここから、更に特別な一歩を踏む事になる。
資料室の内部はいつ見ても圧巻だった。祖国の議会図書館を遥かに凌ぐ1億2000万冊の蔵書に加え、電子化された情報は100エクサバイトにのぼる。|大迷宮《パレス》と呼ばれる程に広大かつ複雑な資料室内を進んでいくと、再び厳重なセキュリティチェックを受ける。ここより先は更に限られた者しか立ち入る事が出来ない聖域となる。
更に進んでいくと、今度は『門』が現れた。オーギュスト・ロダンの地獄の門を思わせる重厚な門の先には、真っ白な部屋が待ち構えている。入ると、四方から光が溢れ出し、全身をくまなく貫いてくる。
これが魔術によるセキュリティチェック。『魔術』とは言っても、実際にはSDOの能力の模倣に過ぎない。『魔力』と称される魔術の素となる原料もまた、SDOの肉片から抽出されたものだ。悪魔、魔神とも称されるSDOの力を扱う術。そういう意味での魔術である。
魔術師、陰陽師、祈祷師、妖術師などと称されるもの達の多くはSDOの能力をなんらかのカタチで操る術を身に着けた者達だ。対策局にもかなりの人数の魔術師達が在籍している。そもそも、対策局の前身は彼ら魔術師が集い築いた魔術結社だった。SDOに対抗する為にSDOを理解し、利用する。方向性は違えど、始まりはジェイコブの考え方と一致している。
魔術によるセキュリティチェックを越えた先は更に複雑さを増す。道を知らぬ者は二度と出て来る事のかなわぬミノスの迷宮だ。
ジェイコブは迷いのない歩みで奥へ突き進んでいく。辿り着いた先には更なるセキュリティチェックが待っていた。それも、科学と魔術の両方向から厳重にチェックされる。資格無き者が無断で立ち入れば、悍ましい運命を辿る事になる。資格を与えられている事を自覚しながらも、ジェイコブは身を震わせた。そして、5分の後に意を決してチェックを受ける。
覚悟に反して、チェックはあっさりと終了し、ジェイコブは中へ通された。そこが第十三区画。対策局が設立される以前より、この場所に封印されてきた禁書室だ。
早まる鼓動を押さえつけながら奥へ進んでいくと、そこには一冊の本が置かれていた。他には何もない。積み重なる本を想像していたジェイコブは少し驚きながら本へ近づいていく。すると、急に本が光り輝き始めた。何事かとジェイコブが目を瞠ると、目の前に一人の男が現れた。美しい顔立ちで、女のようにも見える。
「これは……、立体映像なのか?」
男の体は微かに透けていて、向こう側の壁が見えている。ジェイコブは室内を見回した。ここは最低でも二千年以上前の遺跡だ。立体映像の投射機が元から置いてあったなどあり得ない。後から運び込まれたものだとすると、それもまた奇妙な話だ。この遺跡が重要視されている理由はSDOの機密情報が記された太古の資料があるからだ。そんな場所に、どうしてこんなものを配置したのか、ジェイコブは理解に苦しんだ。
『……へえ。君が特定災害対策局の新しい局長かい?』
「……え?」
まるで、目の前の立体映像に話し掛けられたかのような錯覚を覚え、ジェイコブはギョッとした。一拍を置いて、立体映像が語りかけてくる事などあり得ないと思い直し、スピーカーを探し始めるジェイコブ。すると、そんな彼に対して、立体映像の男は怪訝そうな表情を浮かべた。
『どうしたの? 先代の……、マイケルから聞いていないのかい? ここには、この書籍型ハードウェア《ノア》以外に何も設置されてなどいないよ』
「のあ……?」
『ノアの方舟だよ。知っているだろう? 神話の時代、神がすべてを洗い流そうとした時に、ノアだけが方舟を作り、選ばれた生命と共に新世界へ旅立つ資格を与えられた。もっとも……、オレは方舟になんて乗りたくはなかったけどね』
「……待ってくれ。お前……いや、あなたが私に話し掛けているのか?」
『もちろんだとも。オレがこの目で君を見つめ、この口で君に語りかけているんだ』
そう言うと、男は立体映像である己の目と口を指さした。
「あり得ない……。こんなに高度な受け答えを可能とするAIなんて、聞いた事がない」
『それはそうだろう。この時代では、まだまだ先の技術となるからね』
「この時代……?」
『……なるほど。本当に何も聞いていないようだ。まったく、マイケルにも困ったものだね。先々代はしっかりと後継者にオレの事を教えておいてくれたのに。一から説明するのは中々に骨なんだけどな』
面倒臭そうな態度を取る男に、ジェイコブは息を呑んだ。
時代の最先端をいく対策局の技術力でさえ再現不可能なオーバーテクノロジー。そんな存在が何を語るのか、想像する事さえ出来ない。だが、これまでジェイコブが培ってきた常識を打ち破られる事は間違いないだろう。彼はそう確信した。
『さて、まずは自己紹介から始めよう。オレの名は……、ジョン・タイター。始まりを識る者だ』
◆
朝食を作り終えて康平を呼びに行くと、スマートフォンで通話中だった。「ふーん」とか、「あっそ」とか、素っ気ない返事ばかり聞こえてくる。
声を掛けるべきか悩んでいると、康平の方がオレに気づいた。すると、「じゃあ、切るぞ」と言って、そのまま返事を聞く間もなく切ってしまった。
「朝食?」
「お、おう……。えっと、誰と電話してたんだ?」
不躾かとも思ったけれど、どうしても気になった。
「親父。姉ちゃんが旅に出るんだとよ」
「……はい?」
「それより、はやく食べようぜ。腹が減って仕方ねーよ」
オレの手を取って歩き出す康平。しばらく引っ張られた後、ようやく康平の言葉が脳に浸透してきた。
「って、さやかさんが旅に!? え? どういう事だ? だって、結婚するんじゃなかったのか!?」
「ああ、俺の勘違いだったみたいだ。金髪の女を連れ込んで、親父達と深刻そうに話してたからさ」
「……いやいや。なんで、勘違いするんだよ! 女って、さやかさんも女だろ!」
呆れた。そして、実に失礼なヤツだ。
けれど、とりあえずさやかさんの結婚は康平の勘違いのようで心底ホッとした。だけど、ウカウカしているわけにもいかない。もう少し大人になってからにするつもりだったけれど、さやかさんも結婚を考え始める歳だ。
「旅って言ったけど、行き先は? いつごろ帰ってくるんだ?」
「行き先は聞いてねーよ。それと、もう二度と帰って来ないかもしれないんだとさ」
「……はい?」
聞き間違いかと思った。
「帰って来ない……?」
「おう。最後になるかも知れないから一度帰ってこいって言われたんだよ」
あまりの事に意識が飛びかけた。なんで、この男はこんなにも平然としていられるんだろう。
「帰れよ! っていうか、オレも行くぞ!」
「ええ……。別にいいじゃん。それより、朝飯食おうぜ」
「よくねーだろ! 二度と会えないかも知れないんだろ! 事情はよく分からねーけど!」
「姉ちゃんには姉ちゃんの人生があるってだけだろ。放っておいてやろうぜ」
「なんで、そんなにサバサバしてんの!? 朝食より姉ちゃんだろ!?」
「いや、朝飯だろ」
キリッとした表情で寝惚けた事を言い出す康平。
「……お前、さやかさんの事が嫌いなの?」
「嫌いじゃないぞ? ただ、興味がないだけだ」
「嫌ってるより酷いな!? なんで!? あんなに美人で優しいのに!」
「強いて言うなら……、邪魔だから?」
「邪魔!? 実の姉を邪魔と!? オレだったら間違いなくシスコンになってるのに! っていうか、子供の頃から好きだったんだぞ! こうなったら急いで告白をしに行くしか――――」
玄関に向かって駆け出そうとしたら、両肩を康平に掴まれた。
「落ち着けよ。朝飯が冷めちまうだろ」
「朝食どころじゃないだろ!」
「馬鹿言うな! 翼が俺の為に作った朝飯を無駄に出来るか!」
「……は、はい」
今日の康平はいつになく押しが強い。
「さ、さやかさんはいつ出発するんだ?」
「一時間後らしい」
「だ、だったら、急いで食べれば間に合うな!」
「何を言ってんだ? ゆっくり味わって食べるに決まってるだろ」
「……なんで、そんなにさやかさんの見送りに行きたがらないんだ?」
「別に行きたくないわけじゃない。朝飯をゆっくりと食べたいだけだ」
ウソつけ。普段の康平なら朝食なんてすぐに食べ終えて遊びに行きたがる筈だ。
幼い頃は一緒にさやかさんと遊んでいた。その時は普通に懐いていた筈だ。
「……思春期か?」
「は?」
「反抗期なんだな、つまり。だったら、やっぱり行くべきだ! 反抗期が終わってから、やっぱりあの時に会いに行ってれば! ってなっても遅いんだぞ!」
「別に反抗期ってわけじゃ……」
「つべこべ言わずに行くぞ! 朝食は帰って来てからだ!」
腕を引っ張ると、康平は観念したようにため息を零した。
「……わーったよ」
「ほら、急ぐぞ!」
贄守神社の境内を横切り、康平の家へ急ぐ。すると、丁度さやかさんが家を出ようとしているところに出くわした。ギリギリセーフだ。
「さやかさん!」
「あら、翼くん! それに、コウちゃんも!」
さやかさんは相変わらず綺麗だ。まさに大和撫子という言葉が相応しい。思わず見惚れていると、急に目の前に金髪の女性が現れた。
たしかに髪が短くて男に見えなくもない。
「……お前か」
「へ?」
いきなり話しかけられた。
「……悔いを遺すなよ」
それだけ言うと、金髪の女性は離れて行った。
「翼くん」
ボーっとしていると、さやかさんに声を掛けられた。
「は、はい!」
いきなり抱きしめられた。康平が「お、おい!」と文句を言っている。
「わたしは君の味方だよ。昔も今も、これから先も」
「え? あ、はい。えっと、ありがとうございます」
戸惑いながら答えると、さやかさんは離れて行った。
「コウちゃん。もしも、これから納得のいかない事が起きたら、その時は自分の思うままに動きなさい。きっと、それが一番正しい事だから」
「はぁ?」
「お姉ちゃんからの忠告っていうか……、お願い。それじゃあ、わたし達は行くね」
「さ、さやかさん! あの、本当にもう……、帰って来ないの……?」
「うーん、どうかなー。もしかしたら、帰ってこれるかもしれないね」
「本当!?」
「……うん」
少しホッとしつつも、ここで告白するべきか悩んだ。慌てて出て来たものだから、心の準備もまともに出来ていない。だけど、この機を逃したら……。
「あの、さやかさん! オレ、オレさ!」
「おい、沙也加! そろそろ行こうぜ!」
金髪の女性の声にオレの告白は遮られた。
「あ、うん! じゃあ、行くね。……またね、翼くん」
そう言うと、さやかさんは康平に何かを耳打ちした後、金髪の女性と共に去って行った。
「……こ、告白出来なかった」
「ドンマイ。それより、朝飯食おうぜ」
「お前……、そればっかりだな」
深々とため息を吐くと、オレ達は神社の方へ戻っていった。
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