朝になり、目を覚ますと突然、扉がガチャリと開かれた。
「……蘭子!」
「パパ……?」
部屋に入って来たのはパパだった。焦りと不安の表情を浮かべている。
「こ、ここに居たのか……」
「ど、どうしたの?」
久しぶりにパパの声を聞いて、少し戸惑った。いつもなら、パパは無言のまま家を出て行くからだ。
「どうしたも何もあるか! 朝食が無いからママの様子を見に行ったら何処にもいないし、蘭子も部屋にいない! 肝を冷やしたぞ……」
「え? ママがいないの!?」
「そうだ。何か知らないか?」
「う、ううん。昨日の夜、何処かに出掛けたみたいなんだけど……」
「そうか……。ああ、クソ! みんなに言われた通りだ」
「みんなって……?」
「職場のみんなだ。いい加減にしろって怒られた。すまない、蘭子。俺は……、お前達を蔑ろにして……」
パパは言葉を詰まらせた。以前、パパの職場のバーベキューに行った時のことを思い出した。パパの同僚達はとても豪快で、笑い声が絶えなかった。
「いいよ。わたしも同じだもん」
「いや、そんな事はない。蘭子はずっと悠斗と向き合っていた。俺は……、俺は悠斗とすら……」
パパは泣いていた。その涙は、言葉では語り尽くせない程の深い悲しみを伝えていた。
「……パパ。キャッチボールしない?」
「え?」
「ダメ?」
「……いや、いいよ」
グローブとボールは部屋の中にある。小さいグローブと大きいグローブを手に取ると、パパは鼻水を啜った。小さいのはゆうちゃんのグローブで、大きいのはパパのグローブだ。二人は休日の朝によくキャッチボールをしていた。パパはその時間が大好きで、ゆうちゃんがアニメを見たいからと嫌がっても、眠たそうにしていてもウキウキと外に連れ出していた。
パパが休まないのは、きっと、その時間が二度と訪れない事を自覚したくなかったからだ。
「外に行こうよ」
「うん……」
パパの手を引いて、外に出る。家の前にはそこそこ広い駐車場があって、そこがパパとゆうちゃんにとってのマウンドだった。
「いくよー」
「ああ」
わたしがボールを投げると、パパはキャッチする為に必死に走り回らなければいけなかった。
「ごめーん!」
「いや、いいピッチングだよ!」
ボールを投げるって、結構難しい。だけど、ゆうちゃんのボールはいつでも真っ直ぐにパパの下へ向かっていた。いつか野球選手になるかもしれない。わたしの弟は実に将来有望だ。
「そりゃ!」
「おっと! ほら!」
「わっとっと! おりゃー!」
「ほっ!」
「はっ!」
「おお!」
「ふん!」
何度も何度もボールを投げ合った。そして、肩が上がらなくなってきたくらいで家の中へ戻って行った。パパは少し晴れやかな表情でゆうちゃんの部屋に向かい、遺影に手を合わせた。
「悠斗……」
パパは目を閉ざして、心の中で悠斗に話しかけている。
たくさんの言葉を溜め込んでいたようだ。パパが顔を上げたのは三十分近く経ってからだった。
「……蘭子。パパはちょっとママに連絡を入れてくるよ。今日はみんなでごはんを食べよう」
「うん。久し振りに四人で食べられるね、ゆうちゃん」
「え?」
ゆうちゃんも喜んでいる。バラバラになりかけていた家族がまた一つになれる。
また、すべてが元に戻る。
「蘭子……?」
「ゆうちゃん、ハンバーグが食べたいんだって! ひまわり亭に行こうよ! あそこ、すっごく美味しかったし。ねえ? ゆうちゃん」
ゆうちゃんもウンウンと頷いている。
「……あっ」
「パパ? どうしたの!?」
パパは青褪めている。
「大丈夫!?」
「蘭子、どうした!?」
パパの様子がおかしくて慌てていると浩介が入って来た。
「あ、あれ、おじさん!?」
「……こ、浩介くんか」
「は、はい」
「あっ、手紙持って来てくれたんだ! ありがとう」
「あ、ああ……」
「手紙?」
「うん。あっ、おじいちゃんからだ。今度、時間が作れたから来てくれるんだって!」
「親父が……? っていうか、どうして浩介くんがうちの手紙を持ってくるんだ?」
「えっと、それは……」
「手紙を仕分ける為です」
困惑しているパパにどう説明しようか悩んでいると、浩介がアッサリとバラしてしまった。
「ちょ、ちょっと、浩介!」
「最初は蘭子がやってたんです! おじさん、辛いのは分かるけど、もっと蘭子の事を見てやってください!」
浩介は怒っていた。
「……詳しく教えてくれるかい?」
「最近は減って来たけど、酷い内容の手紙がかなり届いてるんです。郵便局に一回苦情を入れたんですっけど、全然取り合ってもらえなくて……」
苦情を入れに行ってくれていたなんて知らなかった。
「その手紙はまだあるかい?」
「‥…見たいんですか? 胸糞悪くなる内容ばっかりですけど……」
「見るよ」
「取ってきます……」
「ま、待って! やめた方がいいよ、パパ! 本当に酷い事が書いてあるの!」
わたしが言うと、パパは表情を歪めた。
「ごめん。ごめんよ、蘭子……」
パパはわたしを抱き締めながら、何度も何度も謝った。
それが凄く嫌で、悲しくて、わたしは「いいから! 大丈夫だから!」とパパの背中に手を回した。
しばらくして、浩介が手紙を持って来た。思ったよりも多い。
「……これ、今日の分?」
「いや、違う。俺が仕分けるようになってから、一応取っておいた」
「どうして……?」
「念の為だ」
そう言うと、浩介はパパに手紙を渡した。
パパは手紙を開くと、目を見開いた。そして、二枚目、三枚目と手紙を読んでいった。
その度にパパは苦しそうな表情を浮かべる。
「もう……、もう止めようよ!」
こんなのはただの苦行でしかない。
わたしはパパの手から手紙を奪い取った。
「……蘭子、ごめん」
「パパは何も悪くない!」
パパが謝る理由なんて何もないし、心無い人達の手紙を読んで傷つく必要もない。
わたしは手紙を持って来た浩介を睨んでしまった。
「ら、蘭子……」
浩介は動揺している。その様子を見て、わたしは自己嫌悪で吐きそうになった。
わたしの為に手紙の仕分けを代わってくれたのに、わたしと一緒にゆうちゃんの体を探す為に街中を駆けずり回ってくれたのに、そんな彼を責めるなんてどうかしている。
「……ごめん、浩介」
「いや……、俺の方こそ……」
俯き合っていると、パパが立ち上がった。
「……蘭子。パパはちょっと、ママを探して来るよ。浩介くん、すまないが蘭子と一緒に居てあげてくれるかい?」
「は、はい。もちろんです。あと……、すみません」
「……謝るのは俺の方だよ。辛い事をさせてすまなかったね。ありがとう」
そう言って、パパは浩介の頭を撫でた後、部屋を出て行った。
「わたし達もそろそろ行こうか」
今日は伊山小学校に行かなければいけない。あまりモタモタしていると、また日が暮れてしまう。
そう思って立ち上がろうとしたわたしの手を浩介が引いた。バランスを崩して尻もちをつくわたしに「ごめん」と謝ると、浩介はわたしの肩を掴んだ。
「……浩介?」
「なあ、もうやめないか?」
「え?」
「おばさんも言ってたじゃないか! 白鳥先生も、双六堂の人もみんな言ってる! 今、外に出るのは危険だ。悠斗の体を探すのは警察やおばさんに任せておこうぜ。なあ?」
浩介の言葉にわたしはショックを受けた。
「どうして……」
「言っただろ!? 危ないからだ! お前に何かあったら、みんなが悲しむんだぞ!」
「……どうして、そんな事を言うの?」
わたしには分からなかった。
みんなを悲しませたくはない。だけど、最も優先するべき事はゆうちゃんの体を見つけてあげる事だ。
今も哀しそうな表情を浮かべているゆうちゃんを放っておく事なんて出来ない。
「ゆうちゃんが泣いてるんだよ!? はやく、探してあげなきゃ!」
「悠斗は死んだんだ!」
その言葉にわたしは息が出来なくなった。
そんな事は知っている。知っている筈なのに……、わたしは……。
「……死んだんだよ、悠斗は」
浩介は辛そうな表情で言った。
「泣いてなんていないんだ。だって、悠斗はもう……、泣けないんだから……」
「やめて……」
体が震えた。分かり切っている事を言われているだけなのに、わたしは怖くて堪らなくなった。
「なあ、蘭子。悠斗はお前が危ない目にあってまで、自分の体を探して欲しいなんて言うと思うか?」
わたしは耳を両手で塞いだ。もう、浩介の言葉を聞きたくない。
ゆうちゃんはそこにいる。ずっと、わたしの傍にいて、泣いている。
わたしはお姉ちゃんだ。ゆうちゃんを笑顔にしてあげないといけないんだ。その為には名探偵にならないといけない。名探偵になって、ゆうちゃんを見つけないといけないんだ。
「蘭子! 悠斗は……」
わたしの手を耳から引き離しながら、浩介は残酷な事を言おうとしている。
「ゆうちゃんは帰って来るの!」
その手をわたしは振り払った。
「ゆうちゃんを見つけたら、一緒に遊園地に行くの! キャッチボールをするの! 甘口のカレーを作ってあげるの!」
わたしは部屋を飛び出した。ゆうちゃんを探さなきゃいけない。ゆうちゃんが待ってる。ゆうちゃんが泣いてる。ゆうちゃんを笑顔にしてあげなきゃ。ゆうちゃんと一緒にやりたい事がいっぱいある。ゆうちゃんと一緒にいたい。ゆうちゃんに笑ってほしい。ゆうちゃんは生きてる。ゆうちゃんは帰って来る。ゆうちゃんにしてあげたい事がいっぱいある。
「ゆうちゃん、どこ!? ゆうちゃん、出て来て! お願い! お姉ちゃん、ここにいるよ! ゆうちゃん! お願いだから出て来てよ! 好きな所に連れて行ってあげるから! 嫌いなもの残しても怒らないから! 出て来てよ! ゆうちゃん!」
「蘭子!」
追い付いて来た浩介に抱き締められた。耳を塞ぎたい。何も聞きたくない。だけど、彼に抱き締められているせいで腕をあげられない。
「悠斗は死んだんだ。死んだんだよ……、蘭子」
足に力が入らなくなった。
知っている。分かっている。だけど、知りたくなかった。分かりたくなかった。
だって、認めたくなかった。ゆうちゃんが帰って来ないなんて……。
「やだ……」
ずっと乾いていた瞳が滲み始めた。
わたしは息を荒げながら必死に顔を持ち上げた。何も零したくなかったからだ。
だけど、止まらなかった。涙が溢れ出した。ずっとずっと押さえていた蓋が外れてしまった。
「……やだ、ゆうちゃん……」
ずっと一緒にいる筈だった。時々喧嘩はするかもだけど、お互いに家族が出来て、別々の家に住む事になるかもしれないけれど、おじいちゃんとおばあちゃんになっても、わたし達は一緒の時間を何度も何度も重ねていく筈だった。
だけど、出来なくなった。だって、ゆうちゃんは死んでしまったから。もう二度と、ゆうちゃんと同じ時間は歩めない。二度とゆうちゃんの笑顔を見る事は出来ない。もう、ゆうちゃんに何もしてあげる事が出来ない。
そこから先はもう言葉にならなかった。わたしは泣き喚いた。そこが住宅街のど真ん中だなんて意識する余裕も無かった。まるで幼子のように手足をバタつかせて、涙が枯れ果てても泣き続けた。
留言