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執筆者の写真雪女 雪代

第三十話『白鳥彩音』

「……どうして、こんな事に」


 隣でトモちゃんが泣いている。私は慰めようと思って手を伸ばしたけれど、その手で彼女に触れる事はとても罪深い事のように感じて、途中で引っ込めた。


「ごめんね……」


 トモちゃんは泣いていた。泣きながら謝っていた。


「大丈夫だよ、トモちゃん。絶対、大丈夫だから」


 言いながら、ついつい笑いそうになってしまった。

 昔、そう言って慰めてくれたのはトモちゃんの方だったからだ。

 あの日、あの時、絶望に押し潰されていたわたしに勇気をくれた言葉だ。彼女にそんなつもりは無かったけれど、わたしはそのおかげで勇気を持つ事が出来た。今考えてみると、それは間違った勇気だったのだろうけれど、彼女の言葉が私を絶望の淵から救ってくれた事は事実だった。

 

「大丈夫じゃないでしょ! あの時だって!」

「あの時とは違うよ。私は私の意思でやったの。それに、今度は守るべき人を守れたんだもの」


 私には前科がある。だから、今度は前よりも重い刑罰に処されるだろう。もしかしたら、死刑かもしれない。だけど、それでいい。私は人を殺した。だったら、自分が殺される事も受け入れなければいけない。

 だから、これが彼女と触れ合える最後の時間になるだろう。


「トモちゃん。悠斗くんの事は凄く辛くて、苦しい事だったけど、貴女にはまだ蘭子ちゃんがいるわ。負けちゃダメだよ」

「……マリちゃん」


 その呼び名で呼ばれる事も最後になる。それはとても辛くて、苦しい事だ。だけど、仕方がない。

 やった事には責任を取らなければいけない。それは私が小学校で口を酸っぱくさせながら子供達に教えている事だ。教師である私が反故するわけにはいかないだろう。


「時間みたいね」


 サイレンの音が近付いて来た。きっと、居場所がバレたのだろう。街の監視カメラの前を堂々と通り抜けてしまったから、当然と言えば当然だ。


「ねえ、トモちゃん。蘭子ちゃんにこれを渡してもらえるかな?」

「……これは?」

「先生として、最後に一つだけ、あの子に教えておきたいの」

「これを渡せばいいのね……?」

「うん。きっと、彼女には必要なものだから」


 それは一冊の本だった。ずっと昔、私が収容されていた女子少年院の院長先生がくれた本だ。

 タイトルは『探偵の流儀』。その本には当時の私に足りていないものが書いてあった。そして、あの子に必要になるものが書いてある。

 

「じゃあ、行くね」

「……待って、マリちゃん!」

「バイバイ、トモちゃん」


 私は扉を開いた。その先には体育館の広々とした空間が広がっていた。

 ここは伊山小学校。私はトモちゃんと一緒に、ここの体育用具室に隠れていた。


「白鳥彩音! 手塚忠彦氏殺害の容疑で逮捕する!」


 抵抗する気なんて無いのに、|刺股《さすまた》を構えた警察官達が警戒しながら近付いて来る。

 身一つの女に対して、あまりにも大袈裟な装備だ。私は思わず笑ってしまった。


「確保!」


 そして、私は捕まった。両手に手錠を付けられて、乱暴に連れて行かれる。

 痛かった。だけど、私が殺した相手はもっと痛かった筈だ。許せない男だったけれど、殺して良い理由になどならない。殺す事はどう言い繕っても悪なのだから。

 体育館を出ると、真っ白な光が視界を塗り潰した。何も見えない中を引っ張られていく。

 それは何だか夢の中を歩いているようだった。揺らいでいく意識の中、私の心は子供時代に戻って行った。


 ◆


 私の家は普通という言葉が良く似合う家だった。

 父がいて、母がいて、妹がいた。両親は私達姉妹にたっぷりの愛情を注いでくれたし、借金を作って裏社会の人に睨まれるような事もしていなかった。とても平凡で、とても幸せな家庭だったと思う。

 だけど、その幸せな日常はふとした拍子に壊れてしまった。

 

『お姉ちゃん! 私、主人公になりたいの!』


 妹がそんな事を言い出した時はただただ微笑ましいとしか思わなかった。

 彼女はいつも本を読んでいた。ミステリだったり、恋愛小説だったり、SF物だったり、歴史小説だったり、ファンタジー小説だったりと、ジャンルはバラバラ。だけど、どんな本でも凄く楽しそうに読んでいたから、両親は彼女に好きなだけ本を買ってあげていた。そんな彼女のお溢れに預かって、私もいろいろな本を読み漁ったものだ。


『へー! どんな主人公になりたいの?』


 そう尋ねると、彼女は一冊の小説を見せてくれた。それはミステリー小説だった。

 私は単純に探偵になりたいのだろうと思った。

 あの日、彼女はいつまで経っても帰って来なくて、私は母に言われて彼女を迎えに行った。

 行き先は分かっていた。いつも一緒に遊んでいる仲良しの灯里ちゃんの家だ。

 灯里ちゃんの家はうちから徒歩で十分程の距離にある。着の身着のままで迎えに行くと、私はインターホンを鳴らした。しばらくすると、何故か妹の声が応答して来た。


『ちょ、ちょっと、葵! 勝手に応答しちゃダメじゃない!』

『だって、私しかいないんだもん』 

『え? それ、どういう……』

『とりあえず、お姉ちゃんも入って来なよ! 見せたいものがあるの!』


 その時点で私は異常に気が付くべきだった。だけど、その時の私はとても愚かだった。

 私は言われるがままに灯里ちゃんの家に足を踏み入れた。

 そして、私は妹の本性を知った。


『どう? 凄いでしょ! 私がやったんだよ!』


 そう言って、彼女は灯里ちゃんの死体を見せびらかして来た。

 

『見てよ、これ! 大腸! くっさーい! 灯里ってば、便秘だったのかな?』


 ケタケタと楽しそうに嗤う妹の姿を私は現実のものだと受け止める事が出来なかった。


『きゅ、救急車を呼ばなきゃ……』


 私は携帯電話を取り出した。そんな私を彼女はキョトンとした表情で見つめている。


『救急車なんて呼んでどうするの? みんな死んでるのに』


 妹の言葉の意味を私は理解する事が出来なかった。

 灯里ちゃんがお腹から内蔵をはみ出させていても、彼女のお父さんの首を切り裂かれていても、彼女のお母さんが床に倒れていても、彼女の弟が首にタオルを巻かれた状態で動かなくなっていても、私は彼らが生きていると信じたかった。

 だけど、妹は言った。


『みーんな、私が殺したんだよ! 救急車なんて意味ないよ!』

『……なんで?』

『だって、殺したかったんだもん!』


 その笑顔に邪気など微塵も感じられなかった。


『殺したかった……』


 その時になって、ようやく私は状況を認識した。

 妹が灯里ちゃんの一家を惨殺したのだという状況を。

 私はパニックを起こした。

 どうしたらいいのか分からなかった。灯里ちゃんの家族に謝りたかった。警察を呼ばなければいけないと思った。だけど、それは妹が逮捕される事を意味していて、私はそれが恐ろしくて堪らなかった。

 だから、私は葵の服を脱がせた。そして、自分の服を着せて家に帰らせた。


『ありがとう、お姉ちゃん!』


 お礼を言って、彼女はアッサリと家に帰って行った。

 後に残されたのは血まみれになっている妹の服と裸の自分。私は妹の服を着た。そして、警察に電話をした。

 警察はすぐに来た。そして、家の中の惨状に息を呑み、私を連行した。いろんな事を聞かれた。怖い人に叱られた。罵声を浴びせられた。家族が来て、お父さんとお母さんに泣かれた。怒られて、事情を説明しろと言われて、私は何も言えなかった。だって、辛かったからだ。この辛さを妹に味あわせたくなかった。だから、何も言わなかった。

 何も言わずに黙ったまま、何日かが過ぎていった。


『どうしたらいいんだろう……』


 一人になると、そんな事ばかり呟いていた。

 そんなある時、クラスメイトのトモちゃんが面会に来てくれた。

 彼女は私の事を信じてくれた。


『マリちゃんが犯人な筈がない! ねぇ、何があったの!?』


 嬉しかった。だけど、彼女にも何も言えなかった。

 それでも彼女は私を信じ抜いてくれた。

 

『大丈夫だよ、マリちゃん! 絶対、大丈夫だから!』

 

 そう言って励ましてくれた。その言葉に私は勇気を貰えた。

 そして、妹の罪を自分の罪として受け入れて、自白した。


 ◆


 私は間違っていた。

 妹を守る。その意味を履き違えていた。彼女から裁かれる権利を奪い去ってしまった。

 だから、彼女は怪物になってしまった。


「……蘭子ちゃん。貴女は間違えないでね……」

「さっさと中に入れ!」


 私はパトカーに押し込まれた。

 

「……ごめんなさい」

「何を今更……」


 嫌悪感に満ちた警察の人の声に私は頷いた。

 その通りだ。本当に今更だ。

 すべては私のせいだ。お姉ちゃんなのに妹の本性に気付く事が出来ず、人に戻れる可能性の芽を潰してしまった。そのせいで多くの人が死んでいった。

 私は最低の殺人鬼だ。

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